モノクロームの美、岸田今日子の曲線。映画『砂の女』(1964)

写真は映画『砂の女』の外国用ポスターの一部で、岸田今日子さんが砂の上で男に抱かれている場面です。
KISHIDA Kyôko in [THE WOMAN IN THE DUNES]

12月17日は、女優であり作家でもあられる岸田今日子さんの命日です。
(きしだ きょうこ、1930年4月29日 – 2006年12月17日)

というわけで彼女の代表作の一つである
映画『砂の女』を鑑賞しましょう。

安部公房氏の原作を読むかぎりでは、
主人公の女性はどちらかというと醜女で、
ちょっと人生に疲れているような感じがあります。

だからこそ「穴」に落ちた男は何とかして
そこから逃げたいと思うわけですが、
底で待ちかまえているのが、若さと美貌が
爆発している岸田今日子さんですから、
いくつかのことに目をつぶりさえすれば、
こんな生活も悪くない、と考える男の人は
少なくないでしょうね。

勅使河原宏監督の美的感覚が、
シンプルきわまりない舞台設定と、
岸田今日子さんという逸材を得て
嵌まりに嵌まった感があります。

本作が世界中に多くのファンを
持つのもうなずけるところ。

岸田今日子さんがあまりにも美しいので、
原作の意図とは違ってくるわけですが、
だからといって醜女をキャスティングしたら、
誰も見ないでしょうから、私たちは
このミスキャストを大いに喜びましょう。

岸田今日子の横顔の写真。映画『砂の女』より

映画を観ているうちに、
モノの大きさに対する感覚が
狂わされていきます。

たとえば、私たちがモスラを
巨大な怪獣だと考えるのは、
モスラを取り巻くビルだの山々だのが
小さいからで、定規のかわりになるものが
いっしょに映りこんでいるから、それならば
モスラはとてつもなくでかいんだろうなあ
と思うわけです。

モスラ単体では、
モスラの大きさを特定できません。

『砂の女』では、虫とか、小さなモノの
アップが、いくつか差し挟まれます。

これを繰り返されるうちに、
いったい虫けらも人間も同じような価値しか
ないのではないかと思えてきます。

勅使河原宏監督は、まんまと
私たちの感覚を麻痺させ、
巨人の国に放り込まれたガリバーに
仕立て上げるのです。

岸田今日子の右目のアップの写真。映画『砂の女』より

主人公の望みは、新種の虫を見つけて、
昆虫辞典に自分の名前を載せてやろう
というものでした。

ですが最終的には、その願いを
捨ててしまったように見えます。

これは砂の女からの脱出を
あきらめたからというよりも、
それまで自分が後生大事にかかえていた
価値観が色あせてしまったからでは
ないでしょうか。

東京も、そこで営んでいた生活も、
もはや意味を成さなくなった、
というか、
いまの奇妙な生活と同価値となってしまった。

価値が同じなら、逃げ出そうが住み続けようが
もうどっちでもいいことになります。

いやそれどころか、他人に対し、
自己の存在を誇示しなければならないという
強迫観念から自由になれた分だけ、
幸せになれたのかも知れません。

小屋の中にいる岸田今日子と、その背後で逃げようとしている岡田英次の写真。映画『砂の女』より

価値観の逆転現象はほかにもありました。

砂丘の穴の中で暮らすという「異常」が、
いつの間にか「日常」になりかわっていて、
主人公がようやく穴から脱出した時に広がる
景色のほうが、虚無的というか
異常な世界のように思えてくるのです。

果たしてこの地続きに、東京やら何やら
存在しているのか確信が持てないような状態。

アリジゴクだと思っていたこの家こそ、
実は無意識のうちに求めていたオアシスで、
今までどっぷり浸かっていた文明とか文化とか、
そちらのほうこそが巨大なアリジゴク
だったのではないかという価値の逆転……。

……そんな感じで観ていたのですけれど、
途中からちょっと白けてきました。

主人公が、村の男たちに
 

一日30分でいいから外に出してくれ。
見張り付きでもいい

と頼むと、

女とアレするところを見せたら
願いをかなえてやる

と村人たちが言います。

彼らは穴の回りで、仮面をつけて
太鼓に合わせて踊ったりはやし立てます。

これがなぜ白けるのかというと、
「砂の女」の面白さは、とんでもないことが
この村では当たり前のように行なわれている、
というところにあると思うからです。

女はこの奇妙な生活から抜けだそう
なんていう気はさらさらありません。

何ひとつ疑うことなく、
毎晩せっせと砂かきをし、
水や配給品を与えられています。

彼女は何かの罰としてこの家に
住まわされているわけではなかったはずです。

それが、村人たちが、男のみならず
彼女をも慰み者にするということになると、
じゃあ、この家に住んでいたのは
イジメか、村八分ということだったのか
という解釈も出てきてしまいます。

何の疑問も抱かず、文句も言わず
女が穴の中の家に住みつづけている。

村人たちが、男を閉じ込めた目的も分からない。

そこが面白かったのに、なんとなく
理屈が通ったことで、かえって
白けてしまったのでした。

サングラスをかけた男のアップ写真。映画『砂の女』より

あらすじ (ネタバレあり)

東京で教師をしている男(岡田英次)が
とある砂丘にやってきた。

趣味の昆虫採集をするために
三日間の休暇を取ったのだ。

できることなら新種の昆虫を見つけて、
自分の名をこの世に刻みたい。

村人(三井弘次)が声をかける。
 

県庁のほうから調査に来たのではないか?

と怪しんでいるようだ。

男が身分を説明すると、

もう終バスは出たし、
民家を紹介するから泊まっていったらどうか

と持ちかける。

旅館にでも泊まろうかと思っていた男は、
渡りに船と喜ぶ。

村人数人に取り囲まれるようにして
連れて行かれた家は、
砂丘に掘られた穴の中にあった。

男は縄ばしごを伝って降りていく。

彼を待っていたのは妙齢の
肉感的な女(岸田今日子)だった。

男は夕食をごちそうになる。

家には風呂がないらしい。
水は貴重品なのである。

夜、女は雪掻きならぬ「砂掻き」を始める。
 

毎日これをやらないと家が砂に埋もれてしまう

のだという。

翌朝、男が帰ろうとすると、
縄ばしごが外されている。

女に問いただすも、
 

のらりくらり

とはぐらかされる。

どうやら自分は嵌められたようだと気付く。

男は女を縛り上げ、人質に仕立てて
村人と交渉するが難なくあしらわれて失敗。

その後も男の脱出作戦は続く。

男女が一つ屋根の下で暮らしていれば
そのうち結ばれるのも当然の成り行きか。

ある日、男はついに脱出に成功する。

だが、とちゅうで沼にはまり、
大声で村人に助けを求め、
またも失敗。

穴に戻される。

砂の上で岡田英次と寝ている岸田今日子の写真。映画『砂の女』より

数ヶ月が過ぎる。

男はあるとき偶然に、
砂から水を抽出する方法を発見する。

これで生活が楽になると喜び、
以後もひそかに実験を続ける。

そのうち女が妊娠。

女は村人たちの手によって
穴から担ぎ出される。

村人たち全員が去ったあとも、
縄ばしごは残されたままだった。

男ははしごを伝って穴から出る。

そこには誰もいない。

砂丘と海が広がっているだけ。

男は海を眺めた後、穴の中の家に戻る。
 

逃げるチャンスはまたいつか来る

と、男は考える。

それよりも貯水装置のことを
だれかに話したい───。

七年後。
裁判所は男を失踪者と認定した。

(終わり)

The Woman in the Dunes

原作・脚本: 安部公房
監督: 勅使河原宏
音楽: 武満徹

出演者: 岡田英次 (仁木順平)
岸田今日子 (砂の女)
三井弘次 (村の老人)